「いらっしゃーい!」重厚感のある木の扉を開くと、華やかな衣装に真紅のリップがチャーミングなママが出迎えてくれた。
「昼スナ スナックひきだし 中洲店」のママ、フィッシュ明子さんだ。九州随一の歓楽街、博多の中洲で43年間続くスナックで、お昼の時間に営業している。
社会福祉士であり、九州大学大学院の研究室のコーディネーターでもあるフィッシュさんは、なぜ昼スナックを始めたのだろうか。
フィッシュさんが歩んできた道のりを辿る。
取材の日はたまたま、分身ロボット「Orihime」がママになるというイベントが行われていた。「Orihime」は、内蔵カメラとスピーカーで会話ができる小型のロボットで、リモート操作するともっちさん(山下智子さん)は東京在住。今年の春に知人を通じて知り合い、「すぐに意気投合して」フィッシュさんがママにならない?とスカウトした。
ともっちさんは、脳性まひで体が不自由なため24時間介護を受けながら、20年間ひとりで暮らしている。東京大学で講演をしたり、静岡へお茶摘みに行ったり、「Orihime」で全国を飛び回っている。ともっちさんが「Orihime」で出張するためには、本体を運びWiFiをつないで起動してくれる現地の協力者が必要で、自然に人と繋がっていくのが面白いんです、とフィッシュさんは言う。
開店の14時になると、続々とお客さんが入ってきた。教育関係者や福祉関係者、経営者や大学生、子育て中のママなど多様な人がカウンターに隣りあって座る。真面目な話から砕けた話まで、初対面であることが嘘のように会話が弾む。
グラスの飲み物がなくなれば「熱中症対策に、もう1杯!」と、「Orihime」を通して東京のともっちさんから威勢のいいコールが入る。商売上手なともっちママの掛け声にドッと笑いが起こり、思わずお酒も進む。
にぎやかなお店の端で、フィッシュさんが話し込んでいた。「臨床心理士は活動の場が少ない。心理テストがもっと身近になるようなチャレンジをしてみたいけど、何からはじめたらいいか…」というお客さんを、フィッシュさんは「できるよ! できないと思っているのはあなただけ」と励ます。そのお客さんは、次回の昼スナックで、希望者向けにパーソナリティテストを実施することを決めた。
「誰も”あきらめろ”って言わない、言われない社会にしたいですね」と、フィッシュさんはにっこり。
石油会社のエンジニアだった父の勤務先である千葉県で生まれ、5歳で両親の地元の大分へと移り住み、高校生まで過ごした。
「女はバカでいい。地味で、男の言うことを聞いていればいい」
こんな父の口癖を、子どものころは当たり前だと思っていたという。成長するにつれ、次第にその価値観からはずれていくことに罪悪感を感じながらも、フィッシュさんは自分の道を選択するようになっていった。
熱心に勉強して地域の進学校に進んだときは父から「そんなところに行って何になるんだ」と言われがっかりしたという。関東の美大への進学を希望したが、父からはまったく相手にされなかった。「彼は生まれ育った自分の家を、私たちと再現したかったんだろうと思う」。
「結局は父が言ってきたことと真逆になったわけ。残念でした、やっぱり押し付けはよくないよねって(笑)」
いつもフィッシュさんを見守り、応援してくれた母は、独身時代には公務員として働き自立していたにもかかわらず、「結婚したら専業主婦になるのが当たり前」「家族のために尽くすのがいい妻であり、いい母親である」と信じていた。長い結婚生活の中で「誰のおかげで飯が食えてるんだ」という父からの言葉に傷つき、自分には力がないと思い込んでいったようだった。
母が繰り返しフィッシュさんや弟に伝えていた言葉がある。
「自分のようになってはいけない」「あなたたちがいなければ、とっくに離婚している」
傷ついた母のやり場のない苦しみは、一番理解して欲しい夫ではなく我が子にぶつけられた。多くの子どもがそうであるように、幼い頃のフィッシュさんは、父と母の関係性を修復することが自分の役割だと思っていた。「お父さんにお母さんの気持ちをわからせて」という願いを叶えてあげたいと思うと同時に、なぜ母は私にそんなことをさせるんだという怒りもあった。
「だから私は母ができなかったことを叶えるために生きてきたし、一方で母の生き方が間違っていたことを証明したかったのかもしれない。愛していたけど、憎んでいたとも思う」
新卒で就職した小さな出版社では、1年目から社長について編集、マーケティング、広告営業となんでも経験した。2年後に独立し、スポーツ新聞で署名記事を書き始めると、他の新聞社やテレビ局からも声がかかった。当時は署名記事や風俗情報などを書ける女性記者が少なかったため、仕事は増えていった。独立した年のフィッシュさんの収入が父を超えていたことを、母はとても喜んでくれた。
1999年、知人からイギリスで新しく立ち上げる日本語メディアの編集長をやってみないかと誘われる。旅行で行った経験があり好きな国だったことから、面接を受け、すぐに採用が決まった。日本文化に関心を持つ外国人に向けて、メディアやEコマースの運営を行い、夜間は大学へ通いかねてから関心のあったファッションを学んだ。
当時から真っ直ぐな黒髪がトレードマークだったフィッシュさんは「容姿が日本人っぽいから」とスタイリストの友人から声をかけられ、チャンネル5のテレビ番組にたびたび出演することもあった。アンティークショップを回って集めた古い着物をリメイクして衣装にしていたという。
イギリス在住中に結婚。商社で働く夫の転勤に伴い、繊維業が盛んな中国・山東省の青島市へ移住した。中国語を学ぶために大学に通いつつ、縫製の下請け工場の一角を間借りし、自らデザインした、アンティーク着物をリメイクした洋服をECサイトで販売した。
子どもにも恵まれ充実した暮らしを送っていたところ、2003年、中国でSARS(重症急性呼吸器症候群)が発生した。当時の青島市では、外国人が暮らすエリアは明確に分けられており、外国人を対象にした不穏な事件も耳にしていた。情報が混乱し、先行きが見えないなか、フィッシュさんをふくめ外国人の多くは帰国せざるを得なかった。
アジア人であることからイギリスでもあからさまな差別を受けるなど、海外に住んではじめて自分が「マイノリティ」であることを感じた。同時に自分が日本にいるときは「マジョリティ」だったこと、声を出せない人たちに対して、無自覚に差別的な振る舞いをしていたと気づき、恥じた。
そして日本に帰国したら、しんどい思いをしている人たちのために働こうと決めた。
中国から帰国したのち、通信制の大学で学び、社会福祉士の資格を取得した。
国家試験を受験するための実習では、強度行動障がいを専門とする施設に配属された。強度行動障がいとは、自傷行為や物を壊すなど周囲の人に影響を及ぼす行動が多く、特別な支援を必要とする重度の知的障がいのことである。
ケース会議では精神科医やヘルパー、民生委員など、専門家たちが、言葉でコミュニケーションをとることが難しい利用者のために、その人がどう生きることが幸せだろうか、と真剣に話し合っていた。利用者さんのある意味「隠せない」個性、ありのままの姿が受け入れられていることがうらやましくて、涙があふれた。
第2子出産から復職を経て、2012年に社会福祉法人が営む知的障がい者施設に就職した。
仕事は楽しかったが、利用者へのケアの質を均一化するために「好き」とか「嫌い」といった感情を持ってはならない、というプレッシャーがあった。支援中に労災を使わざるをえないほどの怪我をした際にも、痛みを嘆けなかった。
「しんどかったね」と声をかけてくれる人がいたら、楽になれたかもしれない。心ではそう思っていたと思う。でも職場で言葉にしてしまうことでなにかが壊れてしまうような空気もあった。
「利用者さんも私も同じ人間なのに、どうしてケアする人は感情を持ってはいけないのだろう……」
「ケアする人をケアしたい」
職場の中で閉じた感情を、外で表現する。友人のダンサーと一緒に、ケアワーカーによるケアワーカーのためのダンスチームを立ち上げた。その名も「ヘルパーズ」。
参加者が車座になって日々のケアへの思いを話す。「本当はもっとこういう風にしたい」「この人にこんなケアが必要だと思う」、施設では口にできない思いを涙ながらに分かち合った。
出てきた言葉を基にダンサーが振り付けをし、パフォーマンスとして発表した。言葉にすると炎上してしまいそうなケアワーカーたちの思いを、芸術として表現した。この取り組みは当時、新聞やメディアにも多く取り上げられた。
ヘルパーズの活動に手応えを感じたフィッシュさんは、ケアワーカーに限定せずに、福祉に関わる人たちを対象とした、絵本の読書会をはじめた。
絵本であれば、読書が得意ではない人も読むことができる。参加者のひとりが初見で読み聞かせし、湧き上がってくるものをシェアした。過去の思い出からはじまって、結局は今の話になる。
絵本によりかかって、安心して自分のことを話せる「対話の場」。涙を流して感情を取り戻したり、励ましあって勇気をもらう人もいた。みんな忙しい中、時間をやりくりして、月1回の読書会に参加してきてくれた。多くの人の心の拠り所となっていたこの活動は、フィッシュさんのソーシャルワークの原点となった。
成人の知的障がい者と接していくうちに幼児教育に関心をもったフィッシュさんは、芸術療法を学び、2014年に発達段階に応じて個性を伸ばす「シュタイナー教育」を実践するフリースクールで教師となった。
シュタイナー教育の本の出版に携わっていたところ、フィッシュさんの活動に興味をもった九州大学の研究センターから声がかかった。
同センターは、貧困層に無担保で少額の資金を貸し出すマイクロ・クレジットでノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス博士が創設した、バングラデシュのグラミングループと九州大学が共同で設立した研究機関だ。
そこでビジネスコンテストや起業家育成プログラムを実施するコーディネーターとして勤め、全国規模のビジネスコンテストを主催。フィールドスタディやカンファレンスで頻繁に海外を訪れた。
2019年からはグラミングループと日本企業の合弁会社に勤務。日本の中小企業がバングラデシュに進出し、社会課題を解決するための事業をスタートさせるための支援に情熱を注いだ。
ところが1年もたたずにコロナ禍の影響で、事業はストップせざるを得なかった。
社会全体が止まり、頑張ってもどうにもならないなかでもがいた。同時に、これまで忙しさに身を投じることで避けてきた、自分自身の痛みと向き合わざるをえなくなった。
「私は役に立たないと生きてちゃいけないとずっと思ってきたんだと思う」
2016年に母が亡くなり、母のために生きなくてもよくなり、彼女の生き方が間違っていたと証明する必要もなくなっていた。
「社会課題解決」というのは麻薬のような言葉で、わかりやすい役割を手放すと人に必要とされなくなってしまうのではないかと怖かった。それがコロナで大きく変わったという。
「親に愛されるために、先生に褒められるために、上司に使えるやつだと言われるために、頑張ってきた。おかげで私はいろんなことができるようになったんだけど、年をとるって素晴らしい! 体力がなくなって、集中力がなくなって、記憶力も悪くなって頑張れなくなった。それでもう私は役に立つために生きるのは嫌だ、役にたなくても生きててもいいと自分に言いたかったし、まわりの大切な人たちにもそう言いたいと思ったんです」
「役にたたなくてもいいというのは、なにもしないということではなくて、自分のために生きてもいいのだと自分を赦すことだと思う」と、フィッシュさんは言う。
コロナ禍の2020年、フィッシュさんは知人の紹介で東京・赤坂見附にある「昼スナックひきだし」を訪れた。
ママの木下紫乃さんは、リクルートや数社を経て独立。企業研修や中高年のメンタリングを生業とするかたわらスナックを運営している。「誰もあきらめなくてもいい社会にしたい。そのための場をつくりたい」と伝えると、木下さんは「昼スナックやればいいじゃない!」と背中を押してくれ、暖簾分けが決まった。
現在の店舗は3軒目になる。最初に協力してくれた店舗は、オープンして間もなくコロナウイルスの影響で廃業してしまった。その後移った友人の店で、現在の店舗のオーナーと出会った。
コロナ以降、なかなかお客が戻らず、接待交際費の削減もあって中洲の飲食業界は厳しい状況にある。店舗を日中活用し、少しでも収益を上げたいと昼スナックを視察に訪れる人たちが現れた。そのうちのひとりが現在のお店のオーナーだ。パリに留学した経験があり、IT関連の会社を経営しながら障がい者雇用など社会貢献にも関心が高いオーナーは、フィッシュさんの取り組みに感銘を受け「ぜひうちの店を使ってください」と声をかけた。
もともと「中洲」は戦争で稼ぎ手をなくした女性たちの就労支援の場として、経済界が出資して作ったのが始まりだと言われている。 かつては銀座のように、文化人や芸術家が集まる場所でもあった。今は亡きオーナーの母が43年間営んできたこのスナックを、 文化的な場として残していきたいという願いもフィッシュさんに託された。
2021年1月、昼スナ スナックひきだし 中洲店(現店舗)がオープンした。東京や北海道、時には海外から訪ねてくるお客さんもおり、お金と時間をかけて来てもらうことが、最初は心苦しかったという。人の関係は取引だと思うと、見合うものが提供できないと感じていたからだ。でも、今は違う。お客さんがどんなに遠くから来ようとも、来てもらう価値があると思えるようになった。
「こんな店は他にはない。なぜなら『私がスナック』だから」
「私がスナック」とはどういうことですか? フィッシュさんに尋ねると、一番好きだという『このよでいちばんはやいのは』という絵本の話をしてくれた。
カメ、ウサギ、人間、チーター、鳥、自動車、新幹線、飛行機、ロケット、音、光……
ページをめくると順番に速いものが登場する。
「だが、そのひかりより もっと はやいものがある」
そして最後のページにはこう書いてある。
「それは にんげんが あたまのなかに なにかを おもいうかべたり かんがえたりする ちから、そうぞうりょくだ」
「想像力は一瞬で地球の裏側にも、月にも、宇宙の果てまでも飛んでいける。私、どこかに行かないと何者かになれないんだって思っていたんですよね。でもコロナ禍で移動ができなくなった間、本をたくさん読みました。それまで実用書ばかりだったのが、”役にたたない本”を読もうと決めて、中国の古典やいわゆる日本の文学ばかり読んだんです。
それで分かったのは、心で旅ができるということ。住んでいる環境や経済的な状況、例えば病気で家から出られないとか、介護をしているとか……どんな事情があっても『人の心』は、自由にどこへでも行けるって分かったんです。そして『本当の私』はインドとかに探しに行かなくても(笑)、すでにここにある。焦って遠くに行って誰かから居場所をもらうために命を削ったり、自分を騙しながら生きなくていい。『私がスナック』というのはつまり、『私が私の居場所』だということ」
フィッシュさんの力強く優しい言葉に、胸が熱くなった。
今フィッシュさんは、新たなチャレンジとして「仕事を点検する」ということに取り組んでいる。
未だにちょっと気をぬくと「役に立とうとする自分」がムクムクと出てくるのを感じるからだ。一つひとつの仕事の目的を自分に問う。規模や肩書きや会社の名前が気になる時は、わかりやすく自分の居場所を外に求めている証だ。そういう仕事は手放していく。手放すと、空いた余白に新しいものが入ってくる。もちろん仕事を入れ替えることで、一時的に経済的には不安定になることもある。
でも「残りの人生は、自分が愛してやまないことをやっていこう」と決めている。怖れもあるけれど、今それができていることがすごく嬉しいと、フィッシュさんは穏やかな笑みを浮かべた。
「だんだん肩書きや所属からはずれて、何をやってるかわからないって言われます。もう、職業フィッシュ明子としか言えなくなる(笑)」
昼スナックにくるお客さんは、「移動式のプラネタリウムをやりたい」「漫画を書きたい」「シニアの合コンやりたい」と口々にやりたいことを語る。そこには「役に立つかどうか」の指標は存在しない。お客さんがやりたいことをフィッシュさんが「できるできる!」と無責任に応援する。昼スナックからさまざまな可能性が生まれていく。
スナックのママは、日常と非日常の間に立つちょうどいい存在だとフィッシュさんは言う。
「自分の人生を生きることが、最大の社会貢献だと思っています。こうやって役に立たなくてもいい場所をやっていることが、結果的に役にたっちゃってる(笑)。今が一番、自分のソーシャルワークができている気がする」
自分の居場所を求め、旅を続けてきたフィッシュさんが辿り着いた場所「昼スナック」は、フィッシュさん自身だ。今日も訪れるお客さんに「あなたはここにいる。あなたの居場所はあなた自身」と、語りかけてくれるだろう。
取材・文・撮影=さおりす
編集=川内イオ