障害者や高齢者が安心して旅を楽しめるツアーや情報提供を行う「バリアフリーツーリズム京都」。
主要な旅プランである「さぽたび」では、車椅子やベビーカーなどに対応したプランを企画し、ハンディキャップを抱える人たちの旅を手厚くサポートしている。
同店を運営するのは、「株式会社 サポートどれみ」代表の中村敦美さん。
「人は生きているだけで、価値がある」と語る中村さんに、今までの道のりを聞いた。
「皆さんから、『こんな旅行に行けると思わへんかった。ほんまにありがとう』って、何回もお礼言うてくれはるんです。もうこっちが逆に元気にしていただく感じ。この仕事をやっていて、ほんまよかったなって思います」
そう語るのは、「バリアフリーツーリズム京都」を運営する中村敦美さん。
九条駅から徒歩3分、烏丸通りに面した同店は、京都の中心街からも近い。ここには全国各地から障害者や高齢者、その家族らが相談訪れる。中村さんはひとりひとりに最適な旅行プランを提案。介護福祉士としての知見を活かしてツアーガイドとしても活躍している。
店内は入り口付近に打ち合わせを行うスペースがあった。パーテーションで区切られた奥ではスタッフさんが電話で打ち合わせをしている。端には車いすが1台ストックされ、棚の上には京都観光に関する冊子などが所狭しと並ぶ。
取材が進むなか、「どのような方がツアーや旅行されているんですか?」と尋ねた。すると、中村さんはスクッと立ち上がり、棚に置かれた手帳サイズのアルバムを何冊か抱えて持ってきた。
「うちのツアーを終えられた方には、こんなふうに写真をまとめて差し上げているんです。これは92歳のおじいちゃんに送ったものなんですけど、この方はカメラが好きでね。『もう最後になると思うから、冥土の土産に乗るわ』言うて、ヘリコプターに乗って撮影する企画を立てました。もう大はしゃぎでしたね。満面の笑みで降りてきはって、『来年も乗るわ』って(笑)。ほんとに皆さんいい顔でね、元気になって帰っていかれるんです」
その他にも、「露天風呂から富士山を眺めたい」という車いすのおばあさんの話。普段ニコリともしない介護施設に入っている男性が満面の笑みで写真に写っていて、家族が驚きの声を上げた話。まるで自分の家族のことのように、中村さんは目を輝かせて話す。
いったい、彼女のエネルギーの源はどこにあるのだろうか――? 専業主婦をしていた46歳の時、一念発起して事業を立ち上げた中村さんの足跡を振り返ろう。
1967年、中村さんは京都市東山区で3人姉弟の真ん中として育った。大人になってからわかったことだが、先天性ADHD(注意欠陥・多動性障害)だったことから、幼少期は「周りから浮いた子」だったという。
「靴も左右逆に履いて学校に行ったり、授業中にキョロキョロとよそ見したり。たぶん症状の一つだったんでしょうけど、当時は発達障害なんて言葉はなかったし、子どもが多い時代でしたからね。両親も気にしなかったし、周りから『ちょっと変な子だな』って思われてたんじゃないかな」
ただ、好きなことにはとことん熱中した。父がふすま職人だったことから、家には使われなくなったふすま紙の見本帳があり、裏面におもいっきり絵を描くことができた。めくるたびに鮮やかなふすまのデザインを眺めるのも楽しみのひとつだった。
小学1年生の時、絵の展覧会で入賞したことがきっかけで、少しずつ自信を持ち始める。
「私でも褒められることがあるんだ!」
そう思った中村さんは自分の得意なことに取り組み始めた。目についた漢字のフォルムの美しさに惹かれ、自主的にノートに毎日1000字ほど書き、担任に見せに行った。
「デザインの勉強をしたい!」と思ったことから、高校卒業後、京都市の服飾専門学校に進学する。在学中にもくもくと勉強し、1988年、市内にある下着メーカーに就職。3年後にブライダル部門でウェディングドレスデザイナーへと転身した。
「そのころはバブル景気の真っ只中の転職ブームだったので、挑戦してみようと応募したらすんなり受かっちゃったんです。ただ、デザイナーってきらびやかな職業に思われがちなんですけど、地味な作業の積み重ねでしたね。メーカーのデザイナーなので、人が求めるものを作らないといけない。でも、その枠組みの中で個性を出す必要もあって。それはおもしろいことでもあるんだけど……。なんでやろな。いまひとつ、手ごたえがないなって思っていました」
ブライダル部門で働き、3年が経った1994年に、結婚。夫は母子家庭だったため、義母との同居生活が始まった。義母は進行性の病気を患っており、急に寝たきり状態に。中村さんは義母のすべての世話を引き受けた。
仕事をしながらの介護は想像以上に厳しく、上司に事情を話して自宅勤務にさせてもらった。リビングの一角にパターン台を持ち込み、ボディにドレスを着せて作業しつつ、介護した。義母は身体の痛みを訴え、日に日に中村さんにつらく当たるようになった。
心身ともに疲れ果て、中村さん自身も体調不良に陥り、半年後に会社を退職。「一番つらかったのは、この時期かも」と中村さんは振り返る。
「まだ私は若かったから、人に言われる言葉をきれいに受け止めてしまって、よく落ち込んでいました。姑の満足にいくようなことはしてあげられなかったなって後悔が、今もあります」
義母の介護をしつつ、30歳の時に長女が生まれた。2年後、二女を出産したが、生まれた子どもはすぐに集中治療室に運ばれた。
「心臓に大きな穴が開いている。ダウン症かもしれません」
医師からそう告げられ、お産を終えたばかりの中村さんは言葉を失った。
その後、二女は一命を取り留めるも半年間ほど入院。中村さんは毎日病院に通うようになる。義母は症状が悪化し、介護施設に入居することになった。
「長女は妹になかなか会えず、戸惑ったと思います。夫は仕事が忙しくて、子どもの世話も義母の介護も、ひとりで抱え込んでいましたね。だからかもしれないけど、30代の頃のことはあまり記憶がないんです」
二女はすくすくと成長した。だが、風邪をひくたびに一週間ほど寝込むことがあり、目を離せないことに変わりはなかった。
「働くなら、自分で何かをする仕事を選ばなくちゃ」
そう思ったことから、中村さんは持ち前の器用さを活かしてネイリストやエステティシャンの資格を取得。お店や自宅で働くようになる。ただ、デザイナーのときと同様、中村さんは「やっぱり、おもしろくないな」と思った。いったいなぜか? それは最後に記述しよう。
ある日、中村さんの母親と弟がホームヘルパーをしていたことから、「時間も自由だし、この仕事をしてみたら?」と提案を受けた。
「うーん、家と同じことをするってどうだろう」と最初は考えたが、「よくよく考えると、私以上に介護の不便さを知る人は少ないかも」と思い直す。
中村さんがとくに感じた不便さとは、公的保険の規定が厳しすぎることだった。
「介護が必要な人の家を掃除する場合、ホームヘルパーが掃除できるのは導線が明確な部屋や台所、浴室、トイレのみです。『じゃあ、玄関にたまった落ち葉やほかのところは誰がするの?』と思っても、フォローしてくれる人がいないなって思って。それなら、私が介護保険外でできるサービスをしたらいいなって思いました」
すぐに行動を起こし、中村さんは介護ヘルパーの免許を取得。2013年、46歳の時にフリーランスで事業をスタート。仕入れもなく、場所も必要ない。身一つでできる仕事のため、走り出しは軽やかだった。
まずは15カ所の地域包括支援センターに足を運び、「介護保険外の自費サービスも承ります」と書いた手書きのチラシを配り歩いた。京都市内でポスティングをすることもあった。
最初はなんの反応もなかったが、少しずつ「チラシを見たんだけど」と問い合わせが入るように。中村さんの仕事ぶりを気に入ったリピーターが増え、携帯電話のコールが鳴りやまなくなった。
「家事代行サービスがそれほど世の中に出回っていなかったのもあったかもしれません。いろんな事情を持つお宅があって、それにひとつひとつ対応していくので、臨機応変さを求められましたね」
2018年春、個人事業主として始めた家事代行事業を法人化。「株式会社 サポートどれみ」を設立し、九条駅近くのビルの1階に事務所を構えた。
会社設立のきっかけは、京都府主催の「第6回京都女性起業賞」に応募したことからだった。一次審査を通過した中村さんは、4大監査法人としても名高い「デトロイトトーマツ」から直接コンサルを受けられることになった。
そもそも、中村さんは介護と育児に専念していた主婦である。「ビジネスのビの字もわからなくて、のほほんと受講していました」と、照れ笑いを浮かべた。
「講師の方に『まずは法人化しましょう』と説得されて、そのつもりはまったくなかったんですけど、その場で『はい、します!』と言ってしまった(笑)。そのままの勢いでここまで来ました」
経理や事務でてんてこ舞いになりながらも、税理士の友人やアシスタントの力を借り、「よいしょ、よいしょ」と山を登るように経営者の道を進んだ。
家事代行サービスを利用する人がどんどん増え、中村さんは3年間で1000軒以上のお宅を回っていた。「人手が足りない……。このままではムリ!」と思ったことから、ひとり、またひとりとスタッフを増やした。
ちなみに、採用した人たちのほとんどが介護資格を持たない女性たちだ。「自費サービスの事業のため、研修をしてパート契約で働いてもらっています」と中村さん。信頼する仲間が増え、顧客にも恵まれ、今まで感じたことのない充実感を得た。
同年、育児や障害児家族の家事サポート「さぽかじ」の功績が認められ、京都女性起業賞の中で2つの賞を獲得。行政からも期待を寄せられた。
会社を立ち上げた1年後、中村さんは新しい事業を展開する。
そう、バリアフリーツーリズム京都だ。
発端は、なにげない自身の経験からだった。
「子どもが障害児なので、家族旅行に行くのは一苦労でした。たとえば、泊まった旅館の温泉で私が髪を洗っていると、二女がどっかに行っちゃうので、股の間にぐっと彼女を挟みながら洗ってました(笑)。3食分、横に座って食べさせるのも本当に大変です。もう帰ってくるとクタクタに疲れてしまって。私が風呂に入る間だけでも誰か見ててほしいなって思っていたんです」
京都は世界的にも有名な観光地。そこで、中村さんはひらめいた。
「こんなにたくさん旅行する人がいるのだから、障害者や高齢者、その家族も同じように不便に感じているはずだ!」
ネットなどで調べるも、京都にはそれらしきサービスが見つからない。「それなら、まずはできることから」と、車いすのレンタルから始め、旅行者に対する介護ヘルパーの手配業務に着手した。
旅行業務の知識がなかったことから相談できる場所を探していると、人づてに「NPO法人 伊勢志摩バリアフリーツアーセンター」を知った。
現在、全国に18店舗あるバリアフリーセンターは、それぞれ非営利のNPO団体や地域の公的組織で運営されている。なかでも伊勢志摩は活動歴が最も長い。鳥羽水族館元館長で、「日本バリアフリー観光推進機構」理事長の中村元氏が運営していることから、「これだ!」と思ってアポイントを取り、そこで1日みっちりと研修を受け、熱い気持ちを胸に京都へ戻った。
家事代行業務と並行して行っていたこともあり、旅のサポートの宣伝は大々的に行わず、ホームページに記載しただけだった。しかし、情報を求めてさまざまな人から連絡がくるようになる。
なかには、このような相談もあった。
「高齢者が安心して楽しめるプランを考えてほしい」
サービス精神旺盛の中村さんだが、この時ばかりは困ってしまった。なぜなら、観光業には旅行業法があり、資格のないものはツアーの企画を立てることができないからだ。このような問い合わせがある時は旅行会社に繋ぐようにしていたが、「細かな対応を求めるのは難しかった」と中村さんは言う。
「藁をもすがる思いで連絡をしてきた人たちのなかには、病気でシャワーチェアが必要だったり、嚥下(えんげ)の問題や身体の麻痺のことだったり。介護経験者でなければわからないこともありました。それを旅行会社に伝えても、なかなか理解してもらえず、対応しきれないことが多かったんです」
「なんとかできないかな……」とモヤモヤしていた2020年春、新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた。家事代行サービスも旅のサポートも一気にストップ。それまで順調だった経営も、利益ゼロに。どんどん悪化する状況に中村さんはうろたえたが、逆に「あ、今や」と思った。
「コロナ禍は1年ぐらい経ったら元に戻るはず。その間に私が資格を取ればいいんだ!」
中村さんは3カ月の猛勉強の末、国家資格である国内旅行業務取扱管理者を取得し、バリアフリーツーリズム京都を開業した。
「さぁ、旅を企画しよう!」と前のめりに旅のプランを考え始めた。だが、無常にも翌年もコロナ禍は続いた。
「あれ、お客さんが戻ってこない……」
中村さんは焦った。それでも必要とされる日がきっと来ると信じ、伊勢志摩のセンターで泊まり込みの研修を受けたり、京都周辺のホテルや旅館に足を運んでバリアフリーの調査を行ったりと、手を休めることはなかった。
バリアフリーの調査とは、宿泊施設内の段差を測ったり、出入り口の幅を確認したりするなど、宿泊施設の現状を把握するために行われる。「旅行客に事前に情報を伝えよう」と思ったことから、中村さんは自ら取り組んだ。
調査を始めたばかりの頃は、ホテルや旅館で「調査させてくださいませんか?」とお願いしても、門前払いを食らったそうだ。
「左団扇じゃないけど、京都はなんぼでもお客さんが来ますからね。あんまり耳に入れてもらえなかったんです。でも、コロナで旅行客が激減したことで、ホテルや旅館も『新しい顧客開拓をするために、バリアフリーも大切だ』というところが増えていったんです。おかげで『有料で調べてくれませんか?』と声がかかるようになって、コンサルのような形で施設をチェックさせてもらうようになりました。まだまだ大変な時期は続いているけれど、追い風になった気がします」
2021年12月、「障害者や高齢者に想い出の旅を」をキャッチコピーにした事業「さぽたび」が評価され、「第10回京都女性起業家賞」で最優秀賞を受賞。受賞式に着物姿で向かった中村さんは、賞状を受け取ったとき、こう思ったという。
「誰も置き去りにしない社会を作っていこう。それが私の使命なんだ――」
取材が終わりに差し掛かったころ、「ツアーや同行する旅行では、どのようなことが求められていると思いますか?」と尋ねた。すると中村さんは少し間をおいて、このように語った。
「高齢者の方は身体が思うように動かせなくなると、旅行をしなくなるんです。それまでは元気にバスツアーに参加していた人も、 少し膝が悪くなっただけで、『みんなに迷惑かけるから』って言うて行かはらへん。いつも夫婦で旅行していた方も、どちらかが車いすで入浴介護が必要だった場合、『もう無理だ』ってあきらめてしまうんです。でもね、この事業を始めてずっと思っていることなんですけど、『旅は最高のリハビリ』って感じます。普段できなかったこと、たとえば立てなかった方が、旅先で自分の足で何かを体験しようとする。そういう場面を、何度も見てきました。手助けがなくて旅行をしないなんてもったいない。私たちができることはまだまだあると思っています」
ハンディキャップを抱える人たちの力になろうと、努力を惜しまない中村さん。人と違うことに悩んだ少女は今、活き活きと前を向いていた。
「自分のためやったら、こんなにやれないですよ。お金が儲かるわけでもないですし、正直しんどいですから(笑)。喜んでくれる人がいると思うからできるんです」
介護ヘルパーを始める前の仕事には、「なぜか、おもしろくなかった」と中村さんは言った。彼女は、「人の役に立ちたい」という気持ちが誰よりも強いのだろうと思った。この言葉を聞いて、私はストンと腑に落ちた。
最後に、中村さんはこう振り返った。
「テレビや新聞で取り上げる障害者は、書道や絵がうまかったり、ダンスが上手だったり、何か秀でた才能のある方が多いじゃないですか。それはそれで素晴らしいことだと思います。でも、うちの娘のような重度のダウン症や知的障害者は値打ちがないかと聞かれたら、そうじゃない。『お宅のお子さんもがんばればすごい才能を持ってはるから』と励ましていただくことがあるんですけど、ありがたい気持ち反面、『いやいや、生きてるだけで才能あるよ?』って思う。彼女がいたからこそ、動かされている部分がすごくあります。周りの人から『(二女は)いい笑顔の癒し系やね』って褒めてもらったりしています(笑)。誰にだって生きているだけで価値がある。そういうことをみんなが思える社会に変えたいと思っています」
2023年秋、新たな事業として、京都市でB型作業所兼カフェをオープンする予定だ。B型作業所とは、障害のある人が就労訓練を行う福祉サービスのこと。「ずっとやりたかったことなんです」と中村さんは言う。
「今までビジネスをやってきて、利益を出すことの必要性を実感しています。だからこそ、軽作業の多いB型作業所であっても、障害者や職業訓練を支えるスタッフが誇れて、多くの方が手に取るような自社製品を生み出そうと思っています。実は、その準備を進めているところなんです!」
「誰かの困り事を解決したい」と奮闘する中村さんの旅は、これからも続く。
取材・文・撮影 = 池田アユリ
編集 = 川内イオ